アの倫理』岡野八代(岩波新書)

 

●植民地化されたカテゴリーである「母性」


『ケアの倫理』はサブタイトルに「フェミニズムの政治思想」とあるように、フェミニズムのケア的アプローチの総合的な解剖本である。私のようなシスジェンダーでかつ、ぼんくら男にはある意味、教科書といってもいいかもしれない。実際、この本から知ったことは、これからの自分にある種の旗印になるように思える。男はいつも「旗印」が好きで、何かに旗を見つけなければ突き進んでは行けない。ただし私は、本題である「倫理」、あるいは「道徳観」などとの摩擦に関する読み方は浅い。自覚している。


 しかしまぁ、と私はつくづくと思う。例えば福岡伸一は、クレグホーンの『さまよう子宮』の巻頭文で、アダムとイブの話は逆で、生物学的には女性が男性をつくったとして受精卵の細胞分裂を説明し、7週目に男性が分岐されカスタマイズされるメカニズムを説明した。つまり、男性は社会的には威張っていても、生物学的には思いがけず「脆弱なもの」だと断定している。


 フェミニズムおよび、そこから出発してきた社会的な性差の見直しは、実はこの生物学的な意味の見直しから始まっている、ことは確かである。女性がその性的役割として、子を産み、その延長として育児を担い、その延長としてケアを担うという図柄のはっきりした模様への批判(キーワードは家父長制)をベースにした「哲学」が70年代以降のフェミニズムだとしても、女性たちの搾取の現場や事実を取り出し、その議論が出発したのは「ケア」そのものである。


 旗印の必要な私はそうしたひとつの区切り、「旗色」みたいなものがどうしても必要だ。ケアから始まるが、ケアで結局は終わるかもしれない。それは私たち、男がケアを自分事として、家族ごととして、社会的な使命感、認知として考え始めたら、このフェミニズム的科学としての、医療、介護、福祉を軸とする「ケアで終わる」ことが、事実としてそうなるかもしれないと思わざるを得ない。


 前回取り上げた本『男はなぜ孤独死するのか』で著者のトーマス・ジョイナーは、「『男女格差』は、女性が男性に『追いつく』ことによって『ではなく』、むしろ、男性が女性の立ち位置に『戻る』ことによって、縮小するべきである」と述べている。この見解は、ある意味、誤解を受けやすい言葉かもしれないが、男が女の立ち位置に戻るというのは、私からするとたいそうわかりやすい。女性にカスタマイズされた瞬間に戻るということ。


●ケアの本質を損なう「愛」への信仰


 どうしてジョイナーのいうことが伝わりにくいのか。そこにあるのは、「ケア」という本質が責任感や愛という紛れ込みやすいものを、(シスジェンダー男性の)マジョリティが「ケア」だと思いこんでいるからである。とくに「愛」を女性の持つべき生物学的な記号として認識している男たちは、「女性の立ち位置に戻る」ことなど絶対にできない。そこは絶望していい物語だ。人間としての新しい世紀や、生物としての新たな遺伝子的突然変異に期待するしかない、のである。


 岡野は「重要なのは、ケアを担う女性たち、とりわけ母親業の経験から狭義のケア概念が生まれてきた歴史をどう捉えるかである」(第5章 誰も取り残されない社会へ)と述べる。私は「愛」という紛れ込みがしばしば「母性」という言葉に裏腹に使われてきたような印象を持つ。私は医療における差別、フェミニズムの70年代以降の路線の食い違い、社会学や哲学、文化人類学、生物学への踏み込みや混線といったものを、ポピュラーサイエンス的な読書からうかがっている。同時に、ケアを通じて見るフェミニズムに関して、自分の思考が迷路状態で、どこかバラバラになり始めていることも実感している。


 例えば、クレグホーンは『さまよう子宮』で、「医療におけるジェンダーバイアスは、科学的なものでも、生物学的なものでもない。文化的なものであり、社会的なものであり、政治的なものだ」と述べている。


 医療をケアのひとつだとの認定で話を進めるのも不十分であることは自覚しつつも、このクレグホーンの「定義」は、岡野が「第4章 ケアをするのは誰か」で、マーサ・ファインマンの言を借りる形で述べている以下の言葉と重なるように思える。


 女性だけがもっぱらその地位を占めてきた「母性」は、「植民地化されたカテゴリー」であり続けた。つまり、男性によってまず定義され、統制され、そして法的に意味づけられたのだった。


●病院での「指示」という家父長権限


 岡野はこうした「倫理」を語っていくなかで、狭義の倫理でケアが語られていくリスクにも言及している。例えば病院でケアを担うのは「誰か」という問い自体が、すでに社会性を帯び、非常に政治的な意味を持っている。病院でケアを担う、あるいはケアのあり方を問うのは医師、看護師などの医療関連職種者だけではない。たとえば病院の清掃を担う人はケアの当事者ではないと言えるのか、と。


 私はその現場におけるヒエラルキーに倫理や道徳観が持ち込まれているように思う。それは医療に限らず、あらゆる労働の現場で存在する雇用のヒエラルキーでもあるが、いわゆる「ケアの現場」ではそれが重視されている。重視することが当然視されている。病院では医師がケアの実際を仕切る家父長であり、看護師は母親で患者に「愛」を求められ、薬剤師は医師の処方の見張り役と調剤実務だけが求められている。


 そして、医療というケアの現場は、そのそれぞれの役割を「タスク」として信じ切り、行う業務の階層化を疑いもしないことになっている。病院の清掃を担う人は、ケアを担う誰でもない、ということになっている。


 こうした背景が延々と続いてきたことによって、何が進んできたかというと、医療の現場では医師が家父長として政治権限を集中化させ、「指示」という言葉の絶対性を持ち込むことになった。こういう状況はもはや「変革」ですら期待できないレベルにある。


 それで医療に何が起きてきたか。実は患者よりも医師の方が上だというヒエラルキーさえ作ることになったのだ。そのために患者の意思は無視されることは当然で、患者の痛みに共感できないことも当然で、性差医療にも関心を持たずにいて無事だった。


●都合のいい「受容」の解釈

 

『痛み、人間のすべてにつながる』の著者、モンティ・ライマンは、2019年まで医療の世界に広がる「不平等」に対して無関心であったことを吐露している。「それはすぐ鼻先にあったのに、私のレーダーにはまったく引っかかっていなかったのだ。医学の分野では、男性中心の文化的態度がいまだ根強い」。


 ライマンは女性が「ヒステリア」を理由に精神病院に入れられたり、子宮を切除されたり、ロボトミー手術をされたりすることはなくなったが、現代でも女性は男性に比して鎮痛剤を処方されることが少なく、鎮静剤や抗うつ薬を処方されることが多いという。そのうえで女性は男性より痛みへの耐性が低く、そのことと痛みが長期化することを再評価して鎮痛薬の処方を増やすべきだと主張している。


 また、月経前症候群(PMS)を経験する女性は90%に及ぶのに対し、PMSの研究は進んでおらず、ED研究の5分の1でしかないことを明らかにしている。EDで悩む男性は19%しかいないにもかかわらず。ライマンは性差医療に関してかなり多くのページを割いて語るが、もっとも説得力があるのは2016年の実験研究。手を氷水に入れて痛みの程度を測るが、事前に自分が不当な扱いを受けた経験を思い出すよう求められた人は、痛みをより強く感じたという結果を得た。


 ただ、ライマンの主張でもっとも留意すべきは「受容」だ。彼は「不公正で強められる痛み」を和らげるには「受容」を可能にする心理的セラピーがエビデンスを得ているとの報告を添えつつも、「受容」は諦めや譲歩ではないとのスタンスを明確に示している。「受容」は安易な近道ではない。


 岡野の著書から脱線してしまった。次回はこれを元に戻し、『ケアの倫理』に関する私の拙い読み方をつづってみたい。(幸)